生きる価値とは何か。いちど頭に浮かぶと、片隅に住み着いて離れないタイプの問いです。今日は少し、そんな話を。
「価値」という言葉を使った瞬間に、私たちは知らず知らず、何かの物差しを持ち込んでいます。役に立つかどうか、成果を出したかどうか。値打ちを測り、証明する。受験の世界に長くいる身としては、この発想が骨身に染みついていることを、まず自覚しなければなりません。
この物差しをひっくり返した人がいます。精神科医のヴィクトール・フランクルです。強制収容所での体験をもとに書かれた『夜と霧』の中で、彼はおおよそこう述べています。私たちが人生に何を期待するかではなく、人生が私たちに何を期待しているかが問題なのだ、と。問いの向きの転換です。「私の人生には価値があるか」と問うている限り、答えは外の物差しに委ねられてしまう。そうではなく、人生の側が私に問いを投げかけてきている。目の前の状況に、自分はどう応答するか。意味はその応答の中から、後になって立ち上がってくる。価値とは所有物ではなく、応答の別名である——そういう考え方です。
一方で、まったく別の方向から物差しを降ろす議論もあります。哲学者・國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』です。國分さんは「浪費」と「消費」を区別します。浪費とは、物そのものを受け取り、味わうこと。おいしいものをゆっくり食べれば、体には限りがありますから、いつか満足がやってきます。ところが消費は、物ではなく観念や記号を受け取る営みなので、どこまで行っても終わりが来ない。話題の店に行ったという「情報」を摂取しているだけなら、すぐに次の話題の店が必要になる。
國分が取り戻そうとするのは、「何かのため」という回路の外で、ただ楽しみ、味わうことです。しかも、楽しむことには訓練がいる、というのがこの本の面白いところで、だからこそ勉強や芸術が、何かの道具としてではなく、楽しみの器として意味を持ってきます。
フランクルは「応答せよ」と言い、國分は「味わえ」と言う。一見すると全く違う答えのようです。片や使命のような重さ、片や贅沢のような軽さ。けれども、どちらも「おまえの価値を証明せよ」という物差しからは、等しく降りています。生きることが先にあって、価値の話は後からついてくる。順番を取り違えないこと。二人の共通点は、案外それくらい素朴なところにあるのかもしれません。
物差しが厄介なのは、他人に向くときよりも、自分の内側に向くときです。今日も大したことができなかった、自分には価値がないのではないか——測っては責め、責めてはまた測る。私自身、覚えのないことではありません。
けれどもフランクルに従えば、価値は採点表の上ではなく応答の中にしか現れないものですし、國分に従えば、そもそも何も証明しなくても、味わうことは今日から許されています。だとすれば、価値を求めて自分を責めるのは、どちらの道から眺めても、意味のない回り道ということになります。
フランクルと國分のどちらが正しいのかは、私には決められません。またそうした問に意味があるとも思いません。ただ、ひとつだけ決めてもいい気がしています。価値を求めて、自分を責めるのはやめにしたい。何かに応えるように生きる日も、ただ味わうだけの日も、行ったり来たりしながら。
そうしているうちに、「生きる価値はあるか」という問いそのものを、いつか忘れてしまえたらいい。
