今年も春になり、夜の千光寺公園にお花見に行ったりした。桜を見ると、これまでの桜にまつわる記憶が刺激されて昔のことをよく思い出す。中でも印象に残っているのは、大学のために上京してすぐに見た、あの桜のことだ。
大学生になって、僕がアパートを借りたのは、仙川という二十三区からぎりぎりはみ出たところだった。世田谷区と隣接していて、
大学の合格発表のあと、その足で不動産屋に行った。そもそも土地勘のない僕はだいたいの感触をつかみたくて、手頃なチェーン系の不動産屋で話を聞こうと思ったのだ。適当入った新宿駅近くの不動産屋で「おめでとうございます!」なんてことを言われながら、候補地を考えたり、家賃の相場などを聞いた。話を聞きながら「こういうチェーン系の不動産よりも地場に根付いた不動産屋のほうがいいのだ」などと通を気取った心持ちだった僕は、住む場所の見当をつけると、その不動産屋をあとにして、南口のマクドナルドに入り、新生活のことをぼやんぼやんと考えた。
駒場にアクセスがいいという点で候補にあがったのは、京王線・京王井の頭線沿線だ。ただ問題は想定していたよりも若干相場が高かったのだ。さすが東京。広島とは違うぜ。なんてことを思いつつも、予算の範囲内に収まるような物件を求めてまた別の不動産屋へと向かった。
向かった先の不動産屋に勧められたのは、国領のアパートと、仙川のアパートの二軒だったが、国領のアパートはフローリングなのはいいのだけれど、半地下という時代を先取りしたパラサイトな物件で、まったく日差しが入らないという欠点を持っている上、まだ住んでいる人がいて、内見もできないということだったので、残念ですがご縁が無かったということで……。いっぽう仙川のほうはというと、フローリングではなく畳六畳間、土壁で、吊るすタイプの四角い昔ながらの照明、といういかにも昭和な物件で、ひと目見た瞬間から「神田川」が流れだすようなものだった。うちのばあちゃん家みたいだな、と思った。ひねくれ者だった当時の僕は、「逆にあり」と思って、この物件に決めた。というか家賃的に他にあんまり候補がなかったのだ。
一刻も早くひとり暮らしがしたい、と常々思っていた僕は、他の誰よりも早く三月下旬には引っ越しを済ませた。同じく関東地方に進学する友達もいたのだけれど、だいたいは四月一日以降の入居だった。気ばかりが焦ってしまった結果、布団などの大物は入居日に間に合わなかったが、まぁ三月だし大丈夫だろうと思っていたし、「新生活」「ひとり暮らし」「自由」などといった言葉が頭の中をふわふわ行ったり来たりしているような状態で『完全ひとり暮らしマニュアル』を繰り返し繰り返し熟読しては、期待に胸をふくらませていた僕はダンボールが届き荷解きをする最中も、ずっとにまにましながら、近所のスーパー丸正の上にある百円ショップへと「あ、これもいるな」とか「あれあったら便利だな」と思うものを買いに行った。一度に行けばいいものを思い浮かぶたびに行くものだから何往復もした。ばたばたとしながら新生活の一日目が過ぎていき、晩ご飯を食べる段になった。ここは牛丼だろう。当時の広島には牛丼チェーン店が行動範囲内にほぼなく、牛丼というものはフィクションの中でしか存在し得ない、幻の大人の食べ物であったのだ。大学へ何か書類を出しに行った帰りで、乗り換えの明大前駅の松屋に入り、どきどきしながら食券を買って、食券……大人になったな……と思った。アクシデントはそこで起こった。さて帰るか、と思って外に出てみると、なんとしんしんと雪が降っていたのだ。もう三月とはいえ確かに冷え込むなとは思っていたが、雪まで降るとは!仙川に戻るとあたりはもうすでに軽く雪が積もっている状態だった。ひとり家に帰ると、エアコンもない布団もない、そんな状態の六畳間は完全に冷えきっていた。どうしよう。このまま寝たら持病の喘息が出る、というかそのまま凍死する。漫画喫茶の黎明期であったので、仙川駅前にも一軒漫画喫茶はあったのだが、一度も入ったこともない、数度しか聞いたことのない、システムもまったくわからない漫画喫茶はあまりにも敷居が高かった。牛丼屋をクリアした僕だったけれど、なんの基準かはわからないが漫画喫茶は無理だった。仕方なくどうしようかとぶらぶらしながらも、僕の心はわくわくしていた。新しい生活、襲いかかる難題!
そして夜も更けて来たころ、仙川の駅前の大きな桜の木がライトアップされているのを見つけた。ただ静かに降り続ける雪と、はらはらと舞い散る桜が、光をきらきらと反射し、そこにあった。なんて美しいんだろう。
ひとしきり感動しながら帰途につく途中に人生で初めての職務質問を受けた。ごくろうさまです。
結局、荷物の中にあった毛布とダンボールをうまく組み合わせて、なんとか寒さをしのぎ、夜を乗り越えた。翌日、布団が届いて、これほどまでに布団のありがたみを感じたことはない、というくらい感激した。布団、あったけえ。雪が降ったのは、その一日だけで、僕は空が今年分残った雪を落としておこう、という雪の在庫整理のような一日に鉢合わせてしまったのだ。
でもそれだからこそ、あの桜を見ることができた。桜を見ると、その時のわくわくと不安と感動を、ふっと思い起こすのだ。
ただ新しい生活が楽しみだったあの頃。自由を得て、自分で生活を作っていくのだという興奮と不安。新しい門出を祝福するかのような桜の姿。桜に降りしきる雪は”行き”で”幸”で。いまでも僕の頭の中では、桜の大木に、雪がずっと降りしきっている。そうしてずっと僕のことをあの桜が見守ってくれているような気がするのだ。
【本日の一冊】
≪内容紹介≫(amazonより)
評論とエッセイ、小説。その「はざま」にある何かを求め、文学の諸領域を軽やかに横断する――著者の本領が発揮された、軽やかでゆるやかな散文集。
≪一言≫
エッセイの面白さを一番初めに衝撃とともに教えてくれた一冊。それまでも、それとなくエッセイは読んでいたけれど、片隅にやわらかな光を当て、記憶の細部を生き生きと活写するようなそれは、エッセイの在り方と文体と言葉選びと、すべてが衝撃的だった。
小説の神と崇めているのは北村薫だけれど、もう一人、散文の神と讃えているのが堀江敏幸だ。これもまたいついつまでも僕の本棚の良い席を占め続ける著作群の一つだ。