宮崎興治の生徒に!保護者へ!塾内日誌!

【阪田】正邪の行進

僕は元来のネガティブ後ろ向き人間なので、あまりにも強いポジティブの光に照らされると、ゲル状に溶解してしまうのですが、世の中には結構前向きな言葉というのはあふれていて、そういうのに出会うたびにどろどろになってしまうゲル。がんばろう、努力しよう、なんていう中身のない前向きな言葉が好きじゃない。それがわかんないから悩むのにな。がんばりたい、でもがんばる方法がわからない、という人にがんばってないんだ!もっとがんばれ!というのはその人を追い込んでしまうようで。努力しよう、と思っても、どう努力すればいいのかわからない人を追い込んでしまうようで。

だから前向きの言葉には、その人をより息ぐるしい隅っこへ追いやってしまうような感覚を持ってしまう。だったら後ろ向きの言葉の方がまだしも、その人にスペースを提供できていいじゃない、なんて思ってしまう。

 

お題目のような前向きな言葉や安易な共感や同情が嫌いだ。

それはコミュニケーションコストをかけないで自分だけが正しい位置にいて、相手のことなんか一顧だにしないものだからだ。

 

お仕事上、後ろ向きなことばかりは言ってられないんだけれども、こうすれば、せめてなんとかなるかもしれない、ということなら言える。だから僕がよく言うのは、お金を稼ぐといいよ。そうすれば幸せになれるかもしれない。自由を選ぶといいよ。そうすれば幸せになれるかもしれない。知識をつけたらいいよ。そうすれば幸せになれるかもしれない。本を読むといいよ。そうすれば幸せになれるかもしれない。そうした積み重ねがいつか、幸せにつながるといい。そうしたある種の祈りと願いをよく口にする。どうか君たちを迎える社会が、努力がそのままに評価されるような社会でありますように。

 

 

同種の話で僕は正しさが嫌いだ。

 

正しさを背景に話す人が嫌いだ。

正しさに心酔してしまっている人が嫌いだ。

日々日々正しさを振りかざし断罪をする人々がいる。

正しさというものが怖い。

 

とりわけ教える仕事なんてものをしていると、容易に正しさに取り込まれてしまう。教師という立場というものは正しさを求められるものだけれど、聖人だから教師になるわけでもないし、教師になったら聖人になるわけでもないし、教師になるどこかの段階で聖別されているわけでもなく、それは他のどの職業でも同じことで、聖人もいれば悪人もいてそのグラデーションの中でそれぞれがそれぞれに、その人をどこに位置づけるのかを自分マターで引き受けるべきだと思いますが、翻って教師だから自分が偉いと思っている人もいるわけで、なんでそんなに強権発動できるんだ、と思うこともありつつ、ただ、教えることを職業としているだけで、そこに偉さも何もないわけで、先達というだけで、そもそもよく考えたら人にものを教えることが好きな人ってちょっとやべえよな、と思いつつ、そもそもそういうマウントを取る傾向がある人が教職を選択する可能性もあるんだよな、と思ったら少し怖いな。意識しようが意識しまいが、密閉された教室空間の中で自分が王様であることに慣れすぎてしまう怖さが教職にはあるなぁ、と思います。気づかないうちに自分がそうなっていないか。そしてまたそう考えることで他の教師を見下していないか。もちろん人を助けたいという動機もあるだろうけれど、能力のない人助け志願者ほどたちの悪いものもない。

 

こうしたことはあらゆる問題でそれは発生しうるもので、正しさを背景にすると人は驚くほどに傲慢に驚くほどに酔いしれることができる。

 

上の娘は小学校に入ったばかりだが、さっそく学校で学んだ「正しさ」を振りかざすようになっていて、oh…人間と思っている。

「そんなこと言っちゃいけんのんよ!」

「そんなことやっちゃダメなんよ!」

と、初めて握った正義棒を振りまわすことに酔いしれている。

 

垂直の正邪じゃなくて水平の好悪で自分の問題として自分の責任として語れるようにしたい。

 

正義の棍棒を振り回すのは楽しいんだろう。

だれかが用意してくれた正義の鉄槌で思考停止して殴り続けるのは楽しいんだろう

自分が正しい人間だと信じ、他人を悪しざまに罵り批判し批評し、自分だけが高みにいるような気持ちになれて楽しいんだろう。

 

果たしてそれが本当に知性なのだろうか。

借り物の「正しさ」を付け焼刃で握りしめて他人を傷つけることが知性なのだろうか。

 

僕たちはそんなことをするために宗教を捨てて、神様を捨てたのだろうか。

 

神様を捨てて、不確かな科学を信じ、神様を捨ててありもしない正義を信じ、代わりに自分が神様になったかのように振る舞う。そんなことなら宗教と共にあった方がはるかに良かったんじゃないかと、懐古的に考えてしまう。

 

 

 

人間の気持ちはゲル状で、流れていくものだと思います。

 

正義は個体で流れていかない。ただそこにあるだけ。

 

相手に向かっていく気持ちの奔流こそが愛情ではないだろうか。

 

とらえどころのない、刻一刻と形を変えるゲル状の対象を常に濃やかに観察し、対応をすることこそが知性の役割で、それが愛だろ。

 

 

正義ブロックを積み重ねて高い高いところに一人の王様と錯覚してふんぞりかえっているのが、楽しいですか。

相手のことが見えないほどに、ラベルを貼り、レッテルを貼って何かを分かった気になるのが、楽しいですか。

 

 

楽しいんだろうね、そうしてストレスを発散していかないとやっていけないんだよね、何を信じていいのかわからないんだよね、誰かに認めて欲しいんだよね、あなたが正しいと思って欲しいんだよね、と思ってしまうので、僕はまたゲル状になって、言葉を失う。

 

 

教える側の立場がなければ、だから僕は言いたいことなんか主張したいことなんか何もないので、日々本を読んでいたいと思うよ。優しい本を読んでいたいと思うよ。

 

 

【本日の一冊】

北村薫『夜の蝉

 

 

≪内容紹介≫(amazonより)

【第44回日本推理作家協会賞受賞】

『空飛ぶ馬』につづいて女子大生の〈私〉と噺家の春桜亭円紫師匠が活躍する。鮮やかに紡ぎ出された人間模様に綾なす巧妙な伏線と、主人公の魅力あふれる語りが読後の爽快感を誘う。第四十四回日本推理作家協会賞を受賞し、覆面作家だった著者が素顔を公開する契機となった第二作品集。

 

●収録作品

「朧夜の底」

「六月の花嫁」

「夜の蝉」

 

≪一言≫

高校生の時に出会って以来、神と崇めている北村薫神。どの著作も聖典なのだが、なかでもとりわけ好きなのがこの『夜の蝉』だ。特に表題作、『夜の蝉』は、幕切れの鮮やかさ、印象深さがトップクラスにすばらしい。ミステリーだけれど、日常の謎を中心とした優しい世界。もちろんそこには人間の悪意も描かれているのだが、それでも、視点は、物語は、あくまでも優しいものだ。世界が辛くなったら、いつも僕は北村薫を読み返す。