先日、5歳の娘と倉敷の大原美術館へ出かけました。
「わたしはモナリザが好きなんよ」
と言いながら意気揚々と入館した娘に待ち受けているものを考えて私はほくそ笑んでいました。
案の定、娘が足を止めたのは、マルセル・デュシャンの《L.H.O.O.Q.》という作品の前。レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》に、鉛筆でひょいとひげを描き加えた、あの有名な一枚です。
しばらく眺めていた娘が、ふと言いました。
「ねえ、なんでモナ・リザにひげが生えてるの?」
私はすぐに答えることができませんでした。
なぜと言われると、なんでなんだろう。デュシャンのレディメイド作品の意義について答えればいいのか、しかしこれを5歳児にわかるように説明するには……てかよく気づいたな。5歳児だと思ってなめてたぞ。モナリザだねぇといって流す気でいたが……
「うーん……なんでだろうね」
娘は「ふうん」と言って、しばらくじっとその絵を見続けていました。答えは出ませんでした。でも、その「わからないまま絵の前に立つ時間」が、何かとても大切なものを含んでいるような気がして、私はそのまま隣で黙っていました。
今の世の中は、とにかく「スピード」と「効率」が求められます。わからないことがあればすぐに検索し、最短距離で正解にたどり着くことが良しとされる。勉強においても、「どうすれば効率よく偏差値が上がりますか?」「この問題の解き方をすぐに教えてください」という声を聞きます。
もちろん、効率は大切です。期限付きの大学入試という戦場で、効率を求めるのは仕方のないことでしょう。
しかし、学びの本質を考えたとき、私たちは大切な何かを忘れてはいないでしょうか。
イギリスの詩人ジョン・キーツが提唱した「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」という言葉があります。日本語では「負の能力」や「不可知にとどまる力」と解されます。
これは、どうすればいいか分からない状況や、論理的に説明がつかない事態に直面したとき、あわてて中途半端な理由付けや正解を求めず、不確実さの中に耐え続ける力のことです。
私たちは、わからないことに直面すると不安になります。だから、すぐに「これはこういうことだ」とラベルを貼って安心したがる。しかし、そうして即座に導き出した答えは、往々にして浅く、本質的ではないことが多いものです。
デュシャンの絵の前で娘が感じた「なんで?」、それをしばらく考えている様子。あの「わからなさ」の中に留まること自体に、価値があると感じます。
受験勉強をしていると、どうしても「正解か不正解か」の二択に縛られがちです。しかし、本当に学力が伸びる瞬間というのは、実は「わからない」という暗闇の中で、じっと考え続けている時間にこそ宿ります。
難しい問題に出会ったとき、すぐに解説を読んで納得したつもりになるのは簡単です。しかし、その「わかったつもり」は、不可知の状態から逃げ出した結果にすぎません。
答えが出ない、霧の中にいるような状態。その不快感に耐え、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を続ける。この「不可知にとどまる」時間こそが、思考の地力を鍛え、本当の意味での「知性」を形作っていきます。
これからの入試、そしてその先の社会で求められるのは、パターンの暗記ではありません。正解のない問いや、複雑に絡み合った問題に対して、粘り強く向き合い続ける力です。
私は私のわがままとして、授業が単に知識を詰め込む場所ではなく、生徒たちが「わからない」という状態を面白がれるような、そんな思考の体力を養う場でありたいと考えています。
授業という場はとかく「わかりやすさ」が求められますし、「わかりやすい」ことに価値を見出してしまいがちです。しかし、人から与えられた「わかりやすさ」にどれほどの価値があるでしょう。
「今はまだ、わからないままでいい」「でも、考え続けることだけはやめない」
そんな強さを持った学習者を育てていきたい。答えを急ぐあまり、思考という一番おいしく、役に立つ、豊潤で贅沢な時間を捨ててしまわないように。
解けることとわかることは別のものです。解けるけどわからないままなものはたくさんあるでしょう。
いつか、わかるかもしれない。
そのいつかを求めて、思考の手綱をたやすく手放してしまわないようにしたいと思います。
美術館から帰る道、娘はまだ考えていたようです。車の中でふと、お土産として買って帰った《L.H.O.O.Q.》のポストカードを見ながら、「このひげ、おもしろいけどなんかちょっと怖い気もするねぇ」と言いました。
正解ではないでしょう。でも、それは一つの「思考」で一つの「解釈」でした。あの絵の前で、わからないままでいることを許された時間が、その言葉を育てたのだと思います。
わからないままでいる勇気。わからないことに耐える根気。それもまた、学びの姿です。
?に留まり、?を持ち続け、いつか!に変わることを願って。
